悩むことは、生きている証なのか|小寺 弘章
原題:雑感二題
『Try Again』創刊第0号に続いて寄せられた、小寺弘章さんの随想「雑感二題」。前半では、「悩み」をテーマに、自分自身の内面と向き合いながら、人はなぜ悩み、悩みの中で何を得るのかを静かに考察しています。経済学部らしい論理的な視点と、文学や哲学へのまなざしが織り交ぜられた文章は、昭和の学生らしい知的な息づかいを感じさせます。
また書いてしまいました
前回の創刊第0号を手にして、まず最初に感じたことなのだが、自分の書いたものが活字になって出版されるというのは、ちょっと気恥ずかしいが、なんとも気分のいいものだ。
それに、内容はともかく、自分の原稿が三十数名中で最高のページ数を占めていると言えば、なおさらのことである。
この満足感こそが、おそらく「また誰も読んでくれないだろう」という予感にもかかわらず、私に今回も執筆する勇気をふるいたたせてくれたものにほかならない。
前回に引き続き、「衝撃の告白シリーズ第二弾」といこうかなどと考えてみたものの、会誌を私物化するなという非難の声が上がり、練習での恨みと相まって、それこそわら人形で……ということにならぬとも限らないので、はなはだ不本意ながら、それだけは断念したいと思う。
秋になると、人はなぜ悩むのだろう
さて、いよいよ秋も深まり、一年中で一番淋しさ、空しさを感じる季節になった。
私も例にもれず、やり場のない辛さや、何も為し得ない自分に対する嫌悪感で、この胸が張り裂けんばかりになることがよくある。
しかし、どうして我々人間は、このような悩みの中で生きていかねばならないのであろうか。
我々は絶えず夢を抱いて生活している。
そしてその夢は、いつも現実と表裏一体の関係にあり、我々はその現実から目をそむけて、自分だけのユートピアを追い求めたいと願う。
しかし、そう思えば思うほど、現実というものがますます重く自分の身にのしかかり、悩みや苦しみが生じる。
現実という制約条件の下で夢をいかに極大化するか。
言い換えれば、
悩みをいかに極小化するか。
その命題の解が、ラグランジュの未定乗数法で得られるのであれば、話は簡単なのだ。
しかし、このような悩みというものが、自己の抱く理想と現実とのギャップという形で生じている限り、

悩むということは、
少なくとも今、自分が何らかの向上心を持っている証拠であり、
それゆえに、人間は精神的に成長すると言えるのではないだろうか。
だから、
我々が悩みから解放された時は、
とりもなおさず夢を失った時であり、
生きる意味を失った時なのである。
やはり我々が人生という道を歩き続ける以上、この十字架を背負っていかねばならないのだろう。
悩みの中で、人は成長する
しかし、こんな時、ふと次の言葉を思い出す。
幸福は肉体の健康によい。だが精神力を発達させるのは心の悲しみである。 ―― プルースト
この言葉を思い出すと、心のやすらぎを覚える。
そう、
人は悩みの中から、傷だらけになって成長するのだ。
「人生の悩みをくぐった者ほど幸福の意味を知る。」
と言われるように、
もともと幸福というものが相対的なものである以上、
そのような悩み苦しみの中から、
幸福のほんの一端でもつかみ取り、
どんな小さなことにも幸せを見いだせる人間でありたいものだ。
たとえば、
きれいに晴れわたった青空を眺め、
新鮮な空気を胸いっぱい吸い込み、
満足感を得ること。
あるいは、
さりげない一言の中に、その人の人間味を感じ取れること。
そういう意味からすれば、
テニスで鮮やかにドロップショットが決まり、
見事なパッシングショットやスマッシュが相手コートに突き刺さった時。
あるいは、
親でリーチ・ツモ・裏ドラ一丁で上がった時などは、
まさに至福と言うべきであろう。
結局、私にとって幸せとは

結局のところ、
どうやら私にとって、
悩みのない状態(少なくとも表面的には)とは、
テニスをしている時であり、
四人で遊んでいる時なのかもしれない……。
同好会について
同好会ムードの高まりという点について同好会史を眺めてみれば、どうやら私は、その発展の中にあって暗黒の一年をもたらした人物として非難されるかもしれない。
しかし、反動政治に対する反発が契機となって革命が起こるとすれば、同好会がよりよき姿へ質的に変換する過渡期として、この一年はそれなりの意味を持つのではないかと、自分勝手に解釈している。
大きくなった同好会が抱える課題
それでは一体、どのような問題が生じてきたのか。
何よりもまず挙げられるのは、
組織全体の巨大化
ということである。
そして、このことから多くの矛盾が生じている。
第一は、
練習量の問題である。
コートと人数と練習量の間には関数関係が成り立つ。
しかし、コート面数には限界があるため、人数が増えれば、一人当たりの練習量は減少する。
その結果、コートの周りでぼんやり待つ「失業者」が増えてしまう。
この失業対策としては、一つにはランニングによる強制的淘汰が考えられる。
しかし、この方法は昨年のような「人権無視のサディスト」の存在が前提となるし、全員の合意が得られるかどうかも疑問である。
第二には、
「同好会第一主義」から「授業第一主義」への発想転換

も考えられる。
しかし、土曜日には何ら有効な対策とはならず、実行も難しい。
これらがだめなら、
残る方法は、
宝くじを当ててコートを造るか、
大財閥の社長の子弟でも入会させることくらいしかなさそうである。
百人の中の一人だからこそ
第二の問題として、
各人の参加意識の減少
ということがある。
確かに、
十人の中の一人と、
百人の中の一人では、
一人ひとりの意識が薄くなるのは当然かもしれない。
しかし、
百人の中の一人だからこそ、
それまで以上に、
みんながしっかりした意識を持つ必要がある。
そうでないと、
全体がばらばらになってしまう。
そこで、
「同好会は我々みんなのものであり、自分たち一人ひとりが会を運営している。」
という自覚を持つべきである。
現に、毎週のコート取りも、みんなの協力があって初めて可能なのだ。
「今、自分は何をすべきか」
要するに、
参加意識を持つということは、
「今、自分は何をすべきなのか」
を考えることである。
そして、自分の位置づけを行い、
その中に自己の存在理由や価値を見いだしていくことになる。

たとえば、
「自分は声を出すことでは誰にも負けない。」
「顔なら一番。」
「同好会一の雀士である。」
そんな価値でもよい。
それぞれが、自分なりの役割を持てば、
より大きな満足感や生きがいを感じられるはずである。
みんなに同好会を愛してほしい
また例のごとく長々と書いてしまったが、
とにかく、
みんなに同好会をこよなく愛してもらいたい。
ただ、それだけなのである。





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