黄昏の街で交わした、遅すぎた口づけ|山地康路
原題:黄昏時
高校時代からの友人、真司と万里子。大学進学後、再び会うようになった二人は、思い出や将来、恋愛について語り合う「けんか友達」のような関係でした。ある晩、万里子から「明日どうしても会ってほしい」と電話がかかってきます。翌日の喫茶店、夜の公園、そして梅田の雑踏――。長い年月の中で言えなかった思いが、黄昏の街で静かにほどけていく、ほろ苦い青春小説です。
一本の電話
電車を降りて、薄暗い坂道を真司は足早にアパートへ向かった。
真司のアパートは、この坂を登りつめたところにあった。
人気のない暗いアパートのドアを開け、カバンを降ろすと、胸のポケットから煙草を取り出し、電気もつけずにその一本に火をつけた。
フーッと一息ついて蛍光灯のスイッチを入れたとき、廊下の電話が鳴った。
電話は万里子からだ。
明日どうしても会ってほしいというのである。

ひどく元気がない。何か大事な話があるらしくて、しかたなく、明日5時にこの前の喫茶店で待つように言って電話を切った。
電話を切ったその手を、灰皿でけむる煙草に伸ばし、そっとつまんだとき、灰が落ちた。
静かに登る白紫色の一本の筋も、あわ立つ白波のように乱れた。
高校時代からの二人
真司と万里子とは、高校一年のときのクラスメートで、そのころからの友達であった。
当時、マリの愛称で呼ばれていた彼女はクラスの人気者で、真司には話しやすい女友達であったが、万里子は真司にあこがれていたらしく、何かとちょっかいばかり出していた女の子である。
真司は万里子にとって、よき相談相手であった。
田舎の高校を出て、万里子は4年制の女子大へ、真司は一浪の後、大学にそれぞれ進学した。
高校卒業後しばらくは、真司が浪人中だったこともあって、ほとんど会っていなかった二人だが、真司が大学入学後、同じ関西ということもあって、ふとしたことから会うようになった。
たまに会えば、高校時代の思い出とか、大学生活のこと、将来のこと、そして恋愛論などを話し、いつもきまって最後はけんか腰の口調になるのだった。
真司にしてみれば、万里子は妹のような存在であり、憎めないけんか友達といったところである。
「甘えんぼうのお嬢さんか。」
煙草をもみ消しながらそうつぶやいた真司は、しばらく会っていない万里子の笑顔を思い浮かべ、急に懐しく思えてきた。
喫茶店で
次の日、5時を少し過ぎて喫茶店に入った真司は、一番奥の座席に座ってコーヒーカップを口にしている万里子を見つけ、その向かいの椅子に腰を降ろした。
「待った?」
「ううん。」
どことなく淋しそうに見えた万里子も、真司が声をかけると、あの甘えんぼうの笑顔を返す、いつもの彼女だった。
「しばらくやけど、どないしてた?」
「それが学校のほうが結構忙しくて、少し前にやっと試験が終わったところ。3年の後期ともなるとシビアなんよ。なんせ卒業単位が見えてくるんやから。」
「そりゃ大変やな。それで試験はどないや。」
「なんとかね。心配なのが一つ二つあるけどね。」
「それならええやん。おれもこないだ試験が終わったとこやけど、この試験で学部移行かどうかが決まるんやから。成績次第では留年かもしれへん。そないなったら暇やで。」
「私はあと再試の発表待ち。たぶんだいじょうぶとは思うんだけど、再試となるとまたお金がかかるし、私立だから……。」
「『また』と言うと前にもあったの。」
「一つだけね。でも再試となるとどうしても成績評価は悪くなるの。もう4年になるし、これ以上悪くなると就職にヤバイんよ。」
「就職はどないすんの? やっぱり田舎へ帰るつもり?」
「うん、親がそうしろというし。」
「何かコネでもあんの。」
「全然。」
「じゃ、どないすんの。」
「どうしよ。本当、どうしよ。でもなんとかなるわよ。うちの兄貴だって田舎で先生になれたんだから。」
「へえ、先生か。」
「話かわるけど、こないだいとこが結婚したの。一つ年上でね、小さいころからよくお姉ちゃん、お姉ちゃんといって遊んでたの。私、披露宴に出たんだけど感激しちゃった。花嫁衣装っていいわね。」
「ふううん。」
「それがね、その新郎というのが、ほら、あの横田君のお兄さんなのよ。」
「ああ、あのヨッチンの。」
「式場でヨッチンに会ってびっくりしちゃった。横田というのは聞いてたけど、まさかヨッチンのお兄さんとはねえ。ヨッチンのお兄さんとは高校時代の同級生だって。」
「私も早く結婚したくなっちゃった。でもね、こればっかりは私一人じゃねえ……。」
こんなとりとめもない話に、真司は昨夜の電話のことをすっかり忘れていた。
万里子も忘れているかのようであった。
いや、意識的に避けているのかもしれなかった。
そこで軽い食事をして、二人がその喫茶店を出たとき、外はもう暗くなっていた。
夜の公園で

「少し歩こうか。」
「うん。」
と言ってうなずいた万里子は、静かな女性だった。
暗い空に浮かぶグランドビルも、マルビルの光も、まばたいているようであった。
少し歩いて、近くの公園のベンチに二人は腰を降ろした。
児童公園らしく、ブランコと動物の形にコンクリートを固めたものがあったが、それだけの小さな公園である。
真司は煙草に、さっきの喫茶店のマッチで火をつけながら、思い出したように言った。
「昨日、電話してきたとき、何か話がありそうやったけど。」
「ただ会いたかっただけ。」
「そうか。そんならええけど。高校のときからこんなこと多かったな。たいした用でもないのに電話かけてきて、それがいつも長電やったな。」
「懐しいなあ……。あれは三年のころだったな。真司さん、あのころから私のあこがれの人。あのころは片思いだったかな。」
「……。今はどうかな。こうしてベンチに座る二人は恋人同士に見えるかな。」
「意地悪な質問ね。覚えてる? 真司さんが大学に合格した3月に手紙を出したのを。大阪と聞いて本当にうれしかった。それとなくアパートの住所と電話番号を書いておいたのに……。返事がほしかったの。」
「ああ、覚えてる。」
「高校のときからいつもそうだった。どことなく冷たいところがあるの。女の子を寄せつけないようなとこが……。それとも私にだけ?」
「あのころは他に好きな人がいたから。」
と真司は遠くを見ながら言った。
「修学旅行のとき、クラスの女の子が言ってた。それでいて、やさしいところがあるって。そうね、電話してと言えばかならずしてくれる。会ってほしいと言えば、かならず会ってくれた。今日でもそうね。
でも淋しかった。最初に連絡があるまでは。あの手紙を出してから一年たってたわ。どうして一年も返事くれなかったの。どうして高校卒業して二年も会えなかったの。
二年たったら、またやさしいのね。」
「今日のマリ、少し変やな。」
「ごめんなさい。でも今日だけは言わせて。」
今日だけは言わせて
「今日だけ。」
その言葉にビクッとして万里子を見た真司は、彼女の目を見てまゆをひそめた。
彼女の目は、何かを決心した目であった。
いや、覚悟したといったほうがいいかもしれない。
そして静かにしゃべり始めた。
「前から言おう言おうと思いながら、あなたに会えば言えなくなってしまうの。昨日電話したときは今日話すつもりだったの。また会えば言えなくなりそうだった。でも今は話せる気がする――。」
「私、つき合ってた人がいたの。今日まで黙っててごめんなさい。ついこの間まで。でも今は別れたわ……。
前にも話したと思うけど、私、一年のとき兄といっしょに住んでたの。最初は、田舎から出て来て、この都会で一人暮らすより、それなりに頼れる兄貴やからいいと思ってた。
でも、そのうちに兄貴に束縛されていると感じ始めたわ。それで兄貴が大学を卒業したのを機会に、私が二年になる春に今のアパートに移ったの。
そのときを境に、私の生活は一変した。私は街に出るようになった。結構遊ぶようになったわ。
そんなときに知り合ったのが、あいつよ。
愛してなんかなかった。
淋しかったの。
私をひとりにしておいて。
二年たったら、またやさしいなんて……。」
心の中から吐き出すように一気にしゃべった万里子の声は、もう涙声であった。
真司は、万里子に対して初めて素直になれた自分に気がついた。
真司は彼女をじっと見つめた。
『もういい。何も言わなくてもいい。』
と心の中でつぶやいた。
万里子の涙を浮かべた目は、真司が初めて彼女を見たときの少女の目にもどっていた。
そのとき、もう言葉はいらないと思った。
真司は万里子の肩を抱き寄せ、目をつむった彼女にそっと口づけた。
万里子は体から力が抜けていくように、真司の胸に体を寄せた。
真司には、それが少し重たく感じられた。
万里子の肩からショルダーバッグがずり落ち、彼女の腕で止まった。
真司はそのバッグを右手で彼女の肩にかけ、そのまま彼女の肩まであるなめらかな髪を撫で上げた。
真司の指が、万里子の首すじの暖かさを感じた。
反対の方向へ
二人は黙ったまま歩いた。
梅地下に入って、人ごみの中を阪神電車のりばへ向かった。
万里子のアパートは、阪神電車沿線にあった。

阪神電車のりばと地下鉄御堂筋線の改札口の交わったところに来たとき、まさにこの雑踏の中で二人は立ち止まった。
「それじゃ……。」
「さよなら。」
と言って、万里子は電車のりばへの階段を降りて行った。
その後ろ姿が人ごみの中に消えたとき、真司は、もう二度と万里子が自分の前に現れないような気がした。
しばらくその場に立っていた真司は、阪急電車のりばへの階段の方へ体を向け、歩きだした。
それは万里子とは反対の方向だった。





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