最後の一日に、何を思うだろう|井上美紀子
原題:流れる時の中で
もし、自分の生命があと一日しかなかったら――。残された24時間の中で、幼い頃の記憶、過ぎ去った時間、そして自分が忘れられていくことへの恐れを見つめる。朝から正午へ、夕暮れから夜へと一日が流れるにつれ、思索は「過去」と「現在」、そして未知の世界へ向かって深まっていきます。若き日に綴られた、時間と生命についての静かな一篇です。
あと一日しかないとしたら
もし、自分の生命があと一日しかないとします。
自分に残された時間は、かっきり24時間。

一体この一日、どう過ごすのでしょうか。
鳥のさえずりと共に目覚めた私は、はっきりと一日の始まりを認識する。
目覚めというものは、もう再び自分にはやって来ない。
今度眠りにつく時、それは永遠のものとなり、今しがたまで自分がその中にいた暗闇が、ずっと続くのだ。
忘れられていくこと
この限りない暗闇の中に落ちていくことは、きっとこわくない。
ただ、今日まで自分の回りにいた人々が、私の愛した人々が、そして、私を溺愛してくれた人でさえも、いつか私のことを忘れてしまう時が必ずやって来る。
私は、それが一番恐ろしい。
ふと、幼い頃が無性に懐しくなった。
懐しいというよりは、むしろ何か後ろ髪をひかれるといった思いである。
どうしてこんなに大きくなってしまったんだろうと、心の中を淋しい風が吹き抜ける。
幼い頃の澄明な世界
幼い頃、外国人とアメリカ人はおんなじだと思っていた。
どうして自分は泣いたり笑ったりできるのだろうと、いつも考えていた。
例えば、人さし指を折り曲げたい、と思うと、そうすることができるのが不思議に思ったことがある。
こういった、ごく幼稚な疑問や発見が、本能的な、とぎすまされたものに見えてくる。
澄明な世界を、「知識」や「慣れ」という泥土でかき回してしまった自分に、うしろめたさを感じる。
再びあれほど鮮明な世界に戻ることはできないという事実の壁につきあたって、私は、「時間」という階段を昇りつつある自分が救われないものと感じるようになる。
それは悪魔の階段にも似て、昇りながら、実は堕落への道を降りているのではないか?
後ろ髪をひくのは、実はこの不安だったのかもしれない。
この不安のために、私は新しい世界への門を素直にくぐれない。
一度はくぐったものの、名残り惜しそうに立ち止まって、振り返っているのかもしれない。
正午
太陽の光は頭上にさんさんと降り注ぎ、木々の梢は、その太陽に届かんばかりに精一杯背伸びしている。

熟しきった桃の実は、その甘い香りを惜しみなくふりまいている。
この、すべてのものの頂点なる正午。
世界中が自己の世界に陶酔している。
眩しさに目を細めると、そこには陽炎がゆらゆらと立ち昇る。
まるで一日の半分が、もう過ぎてしまったことを私に知らせるかのように。
一秒が一年にも、稲妻にも
やがて陽が傾くと、私は静かに目を閉じてみる。
一秒がまるで一年のようにも感じるが、しかしまた、その一秒が稲妻のように過ぎていくようにも思える。
これまでの一日一日は、つまりはこんなものだったのかもしれない。
北極星と「過去」の光
今度目を開けると、もう日はとっぷりと暮れていた。
北の空には、決して地上の人間を裏切ることのない北極星が、ぽつねんと輝いている。
しかし、私が見ているその光は「過去」である。

何光年も前に発せられた、過去の光なのだ。
その天のものなる、「美化された過去」を見る時、私はこれまでのすべてをふりきることができそうな気がした。
過去というものを美化された遺物として、いったん現在と切り離してしまうと、未知の世界への冒険は案外たやすいのかもしれない。
最期の時に
最期の時、私はその時までの自分の一切を肯定したい。
自分を、即ち過去の遺物として肯定して、その生命を終えたい。
すーっと意識が薄れていく時、たとえ一瞬でも、私はその暗闇の中に、一点の輝く星の光を認めたい。





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